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現在社会を生きていくための金言・考え方を集めて兵法書(blog)としてまとめるというコンセプトです。

江戸時代を経済で見るメモ

安政の改革(1853~1857)・・・金融政策はなし。

  • 阿部正弘主導。

1858年 日米修好通商条約

  • 井伊直弼主導。
  • 金(銀?)流出、それによりデフレ。

1859~61年 安政・万延の改鋳

  • 外国との金銀の価格の違いから、洋銀が輸入され、日本の金貨が大量に輸出された。その結果、金貨の流出量が減少したので、それを阻止するために改鋳が行われた。
  • 結果、激しいインフレになってしまったが、金貨の流出は防ぐことが出来た。

1867年 金札紙幣の発行
1867年 大政奉還により、明治新政府が経済運営を始める。

  • 新政府が新通貨を発行する。
  • 軍艦の購入のために大量出費が必要となる。
  • 富岡製糸場で生糸を生産し、外貨を獲得へ。

1876年 不換紙幣の発行によりインフレ。
1881年 日本銀行創設。
1885年 銀本位制。

江戸時代の政治家のメモ

江戸時代の将軍の治世を年代順に並べると次のようになる。
1603年 家康が将軍に就任する

  • 家康は日本中の金山・銀山を幕府の物にした。その金銀の収入でインフラ整備や大名へのばらまきを行った。
  • 戦争がなくなったことにより、江戸時代は商人だけでなく庶民にまで富が蓄積するようになった。

1605年 秀忠が将軍に就任する


1623年 家光が将軍に就任する

  • 家光の治世は28年間続いた。
  • 家光は28年間で、合計500万両を出費した。これは、500万両分の貨幣を幕庫から市場に供給し、結果として金融緩和(量的緩和)を行ったことと同じ経済効果があった。

1651年 家綱が4代目将軍に就任する

  • 家綱の治世は29年間続いた。
  • 家綱は政治に興味がなく、政治を家来に任せた。
  • 2代将軍秀忠の4男である保科正之が1651年に大政参与に就任して、4代将軍家綱を補佐して政治を主導する。保科正之は1669年に隠居。
  • 保科正之の引退後、老中の酒井忠清が独裁政治を行うまでに権力を持つようになる。
  • 家綱の臨終の際に、堀田正俊の活躍によって、綱吉が5代目の将軍に決定する。

1680年 綱吉が5代目将軍に就任する

  • 綱吉の治世は29年間続いた。
  • 綱吉の政治は天和の治(てんなのち)と呼ばれる。
  • 綱吉は政治に犬公方と呼ばれるなど、行き過ぎた政策もあったが、綱吉の幕府改革があったからこそ、その後に吉宗が享保の改革に着手出来たと言われている。
  • 綱吉は、堀田正俊を重用して、1680年に勝手掛老中に任命、1681年に大老に任命した。堀田正俊の主導で、倹約政治が行われた。しかし、堀田正俊の倹約政治に不満を持ったものが1684年に堀田正俊を暗殺した。堀田正俊の死後、1685年に生類憐みの令が施行され、綱吉の福祉を重視した政治が始まる。生類憐みの令の下、財源もないのに、福祉のために積極財政が行われる。
  • 5代目綱吉の頃は、幕府の財政は毎年10万両が不足していた。そのため、あと10年で幕府の資金は底をついてしまうことが明白であった。綱吉は歴代将軍のように日光東照宮に参拝をしたかった。参拝は1回で約10満両の費用が必要だった。
  • このような歳入不足を解決するために、勘定奉行の萩原重秀が1695年に貨幣改鋳を行う。具体的には、2枚の慶長小判から3枚の元禄小判を作った。これにより、幕府の資金が100万両から500万両に増加した。(このようにして利益を出すのは、一見、不正に見えるので、昭和の頃の教科書では評判が悪かったが、平成以降は経済学知識の普及によって、再評価されるようになった。1690時代は貨幣供給量が明らかに足りていなかったためにデフレ経済になっていたので、通貨の供給量を増加させるためには2枚の小判を3枚にして通貨の供給量を増やすことが必要だったのである。江戸時代はモノの生産量が増加していたため、カネの供給量も増加させなければいけなかったのである。歳入不足を解決するためだけに萩原重秀は貨幣改鋳を行ったと思われていたが、萩原重秀は貨幣供給不足を解決する目的で、貨幣改鋳を行っていたと見る説もある。)

1709年 家宣が将軍に就任する

  • 勘定奉行の萩原重秀は、家宣の下でも金融緩和政策を主導を続けたことで、元禄バブル崩壊や元禄の天災なども何とか乗り切ることが出来た。
  • 政敵の新井白石によって、萩原重秀は1712年に勘定奉行を罷免されてしまう。この後、金融政策は新井白石が主導して、金融縮小政策を行うことになる。

1713年 家継が将軍に就任する

  • 1712年~1716年の4年間、新井白石が金融縮小政策を主導する。新井白石の主導した政治を「正徳の治」と呼ばれるが、江戸の経済を良くするような結果は出すことはできなかった。

1716年 吉宗が将軍に就任する

  • 吉宗の治世は29年間続いた。
  • 吉宗は将軍就任後すぐに、成果の出せなかった新井白石を罷免した。
  • 吉宗は米将軍と言われるほど米に執着し、米の価格を上げて、サムライの年収を増やそうと努力した。


酒井忠清(さかい ただきよ)・・・4代将軍家綱の下で、大老として権勢を振るう。後に下馬将軍とまで呼ばれた。
堀田正俊(ほった まさとし)・・・5代将軍綱吉の下で、側用人や大老として政治を行った。酒井忠清と対立して綱吉を将軍に擁立する。堀田正俊は、酒井忠清らの老中が幕府の政治を支配する時代を終わらせた点では成果を出したが、行き過ぎた節約を奨励したため、最後は暗殺されてしまう。
柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)・・・5代将軍綱吉の下で、側用人や大老として政治を行った。柳沢吉保は1709年に家宣が将軍に就任すると、隠居して政治から身を引いた。
荻原重秀(おぎわら しげひで)・・・1695年~1712年の17年間、勘定奉行の萩原重秀が金融緩和政策を主導する。
間部詮房(まなべ あきふさ)・・・6代将軍家宣(いえのぶ)が将軍に就任してから、側用人として起用され、新井白石と共に正徳の治を行った。


新井白石(あらい はくせき)・・・6代将軍家宣(いえのぶ)の下、緊縮財政派として財政改革を行うが2年で上手くいかずに4年で失脚する。




  • 1650年頃から幕府の財政は1~2万両の赤字であり、綱吉就任時点で数万両の累積赤字であった。(荻生徂徠の「政談」より)
  • 1712年の幕府の歳入は77万両であった(「折りたく柴の木」より)。

指導死とは、教師による「いじめ」である。

1月30日朝7時半のNHKで福井県の少年が教師による行き過ぎた指導によって、自殺したというニュースを見た。教師の行き過ぎた指導が原因で生徒が自殺した場合、「指導死」ということで、「指導死」なんて初耳だった。


指導死・・・、なんだこの言葉?


この違和感・・・、感じたのは自分だけだろうか・・・。
自殺した原因が教師のパワーハラスメントであったなら、普通の言葉を使えば、「教師によるいじめによって、生徒が自殺した」ということであり、指導死なんて馬鹿な言葉は使わない。
逆に、指導死という言葉を使うことで、「教師が良かれと思って指導していたら、生徒が死んでしまった」という言い訳を与えてしまっている。ふつうは、「良かれと思ってやったら~死んでしまった」なんて状況は発生しない。


こんな、「指導死」なんて変な言葉を作らずに、「教師によるいじめ」でいいと思う。NHKも新しい言葉を嬉々として放送しないでほしい。放送の質が落ちる。


このような自殺を、「教師によるいじめ」として見るか、「指導死」として見るかよって、教師側の責任回避となり、根本的な原因対策ができなくなると思われる。



自分は指導死という言葉を見るだけで、以下のような教師側の言い訳が想像できてくる。
教師が行き過ぎた指導をしていたら、急に生徒が死んじゃいました。テヘペロ。教師が生徒を殺すつもりはなかったから、いじめじゃないよ。いじめはダメだからね絶対。教師なんだからいじめをする筈ないでしょ。いじめと教師による指導は全然違うから、言わなくてもわかるよね。いじめじゃないから。指導死だから。損害賠償とか請求しちゃだめだからね。あと、該当教師は加害者じゃないから、名前も出さないし、罰則も与えないけど仕方ないよね。指導死だもん。



遺族と視聴者、PTAなどは、指導死などというバカな言葉によって、教師側に言い訳をさせてて許してもいいのか?


いじめをした側の人間は、必ずと言っていいほど、「自分はいじめていない」と言う。